喜多島 真由美のBLOG

8歳からダイエッター。最高記録は半年40kg減。6年後リバウンド。大病の発症を期に心も体もリバウンドしない今ここすっきりした認識を創ることから人生最後のダイエットを開始。欲求、インプットとアウトプット、細胞とはなんなのなど日常の徒然からのメッセージを発信します

【前編】わたしは笑いたくない

わたしは笑いたくなかった。

 

いつからだったのか

物心ついたときに

何か感情がうごくたび

または感情が動かないのに

周りの人の求めに応じ

 

なにかっつーと微笑んできた。

 

顔をクシャッとさせて

ニコッとしておけば

 

たいていのことは

なんだか丸くおさまるんだな、と認識した。

 

だから

 

心が

悲しくても

悔しくても

怖くても

つまらなくても

怒っても

 

笑ってみた。

笑ってきた。

 

楽しいとき

嬉しいときも笑った。

 

じぶんでも一番驚いたのは

 

世界で一番大好きなお母さんが亡くなったとき。

 

お葬式で親戚の人におちゃらけ

声をかけられた。

(きっとこの親戚の人はわたしを励まそうとおちゃらけた声のかけ方をしたのだと思う)

 

笑って応えた。

 

『大丈夫だよ』

って。

 

(笑)って

つけたほうがいいくらい

笑って大丈夫大丈夫と応え、装っていた。

 

きっと親戚の人は

安心しただろう。

 

母親を亡くしても

気丈にふるまう強さがある娘だから

きっと大丈夫だ、と。

 

安心しただろう。

 

一方、わたしの心はどうだったんだろうか。

 

26歳だったし、突然の母の死はショッキングすぎて、

悲しくて悲しくて

なにも考えられない、頭がどうにかなってしまうのかと思うほど茫然自失だった。

 

そんな心の状態だったのに

 

周囲はこうすれば安心するだろう

とか

このような対応を求めているだろう

 

という判断をして

 

わたしは笑った。

ほほえんだり、笑ったり、おかしがってるふりをした。

 

そして夜、1人になったときは

思う存分心のままに泣いた。

 

 

それから月日はたち、

37歳の時、ある技術と出会い

それまで持っていた疑問に答えを見出した。

 

そのとき持っていた疑問とは

 

『死んだらどうなるんだろう』

 

だった。

 

26歳で母が急死するまでは

目に見えるもの、耳に聞こえること、

肌で触って感じれるもの、ニオイを嗅いで感じれるもの、口に含めるものだけが

現実のものだと信じて疑わない超スーパーウルトラリアリストだった。

 

しかし、

母が亡くなり疑問がたくさん生まれた。

 

一番は、母がどこへいったんだろう?

ということだった。

 

よく言われてる

『あの世』というところなのか?

 

じゃああの世ってなんなの?

この世ってなんなの?

 

母の体は見えないけど

わたしが見えないだけなのか

ほんとうに無くなったのか。

 

さっぱり答えが出なくて

その追求の日々へと突入した。

 

『死んだらどうなるの?』

 

という、質問を携えて。

 

 

そして、

37歳の時にその疑問に答えを見いだした。

 

正確に言うと

答えを見出す技術に出会い、その技術を生き方に活用し始めた。

 

そしてそんな日々の中で気づいた。

 

わたしは笑いたくない。

 

人に

『笑顔がステキだね』

『笑顔がかわいい』

『あなたの笑顔を見ると元気が出る』

 

そんなことをよく言われていたが

 

わたしは心が

悲しいとき、怖いとき、怒ってるとき、悔しいとき

だいたい笑っていたから。

 

うれしくても楽しくても笑ってたけど

 

つらい感じのときのほうがよけいに

笑っていたから。

 

もはや、

無理に笑いたくなかったし、

なんなら

笑う必要もないと思った。

 

『笑顔』

は、なんて残酷な表現の道具なんだろうとも思った。

 

つい最近までそう思っていた。

 

わたしなりの人生で得た考えだったから

それでいいと思っていた。

 

つい最近までは。

 

また続きは後半にて。。。

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 


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※著者。。このふてくされたようなアンニュイな表情はわたしのキャラをよく現してると思います、、、、笑